水鏡


「夏の宵の匂いだ…」
剣心は洗い物の手を止め、空を見やる。

暮れかかる西の空。
白い雲も橙色に染まり、風も大分涼しくなってきている。
昼間の、あのうだるような暑さは消え、夏の宵の気持ちよさに
剣心はほっとため息をついた。

表の井戸端にしゃがみ込み、熱心に洗っているもの。
それは、花器…水盆である。
薫から頼まれて納屋から出してきたものだ。

「ほら、暑いじゃない。あの水盆に綺麗な水を張ったら、きっと涼しい気分に
なると思うのよね。
剣心、探しておいてくれる?その水盆っていうのはね…」

納屋の中をごそごそと探すと薫に説明されたとおりの水盆は
すぐに見つかった。
それは藍色の大ぶりな柄が見事にその白い肌地に描かれた素晴らしい物で
これは高価…と剣心もその扱いに気を配る。
予想よりも大きな物で、洗い桶ほどもある。
それに重い。
確かにこの水盆に透明な水を張り、水草を敷いて、金魚でも放したら
それは涼しく目に映えて、素晴らしいものになるであろう…
剣心は頭の中で想像しながら、嬉しくなってきた。
「うふふ…金魚を買おう…」
と目を細める。

綺麗に洗い終えて、さっそく新しい水を張る。
予想通りに、それは涼しげな、透明な鏡となった。
そこに…
はっとして覗き込む…

そこには頬に十字傷を持った、人斬りの顔があった…


剣心は思い知らされた。
自分の、普段見ていない、自分の顔。
左頬にある、この大きな十字の刀傷…
なんと怖ろしげな傷であろう。
この顔の持ち主は、どんなに大きな闘いをしてきたのだろう。
どんなに……人を殺めてきただろう…

そう思われても仕方のない、そんな「人斬り」の顔。
皆、毎日、この傷の持ち主と会っているのだ。

剣心は自分の十字傷をなぞる。
「そうだったな…オレは…」
日頃ゆっくりと鏡で自分の顔を改めて見ることも無かった剣心は
今さらのように気づいた自分に、驚く。

剣心は自分の頬にあるこの傷を怖ろしげに眺めた。
「そんなに…この傷はオレに馴染んでいたのか…はは…」
剣心は自嘲的な笑みを浮かべた。






「な〜に怖い顔してるんだ?
水の中に怖ろしい鬼でもいたのかよ?」

聞き慣れた声が聞こえてきたのと、
水鏡の中に若者の顔が写るのとが同時だった。
剣心は向きを替えずに、その水鏡の中の若者に話しかけた。
「ああ、いたとも。
怖ろしげな傷を頬に持つ、怖い鬼がな」
鏡の中の若者の顔が曇る。
一瞬で、愛しい者が考えていたことを察した左之助だった。

「そうかあ?オレにはかわいいヤツしか見えネエけどよ…」
剣心は答えない。
「でかくてカワイイ目ン玉がふたつあってよ、こじんまりとした鼻がひとおつ、
淡い桃色のおちょぼ口、これは確か「剣心」とかいう名の、
オレの情人(いろ)のはずだがなあ?」
「茶化すな、左之助!」
剣心が声を荒げる。
「見えるだろう?ほら、ここに大きな刀傷のある男が!
見えているくせに、何故茶化すんだ!
オレは!お、オレは…」
剣心は立ち上がって左之助の方に向き直る。
「人斬りだったんだぞ」
「それがどうした」
左之助はひるまない。
手を長袴に突っ込んだまま、胸を張っている。
剣心が騒ごうがわめこうが動じない。
憎たらしいほどに落ち着いた、背の高い若者だった。

「そんなこととっくに知ってら。
何今頃そんなことわめいているんだよ。
バッカじゃねえの」
「そうだ!馬鹿だった…!」
剣心はさっと向きを替えると、そのまま母屋の方へ走り去ってしまった。
水盆も井戸端にそのまま…

「あああ…オレ今夜、夕飯食いっぱぐれたかも…」
左之助も茜色に染まった空を見上げた。




走る…
走る…
追いかけているのか、追いかけられているのか。
暗い。
暗い。

足元が見えない。
先も見えない。
光が見えない。

「こっちだ」
叫ぶ声がする。
ああ、見つかったのかもしれない。
急がなくては。
刀…ああ、ある。
大丈夫だ。
追いつかれるはずはない。
巻いてみせる。
いつものこと。
俺に追いつけるヤツなどいない。
着物が汚れた。
返り血だ。
手にも付いているではないか。
ああ…
また汚れた…
後で洗わなければ。
ああ…

オレは何処へ行くのか…
何処へ向かって走っているのだ。
わからない。
わからないんだ!


「覚悟しろ、抜刀斎!」
油断した!
ひとりが先回りしていたのか!
刀を抜く。
抜けない!
どうして?

「年貢の納め時だな、抜刀斎」
きらりと光る、斉藤の刀。
「牙突!」



がばと起きあがる。
汗で身体がじっとりとしている。
気持ちが悪い…
「ああ…いつもの…」
剣心は額の汗を拭った。

たびたびこの夢を見る。
袋小路の京都を走り回る自分を、誰かに追いかけられる。
追いつめられる。
そこに待っている、新撰組。
斉藤だ…

剣心は荒い息を鎮めようと、そっと起きあがった。
気配はない。
やはり夢…

安堵したような、しないような、複雑な思いにかられる。

「後悔なぞ…していないと言うたのに」
声に出して、自分に言う。
心の何処かにひっそりと潜む、「人斬りとしての過去」への後悔。
それは時としてさまざまな形で現れ、剣心を襲う。
夢として。
現実として。
昨日の「水鏡の中の自分」として。
そして剣心を追いつめる。
問いつめる。
「はたしてあれが、正当だったかどうか」

新時代のために?
人々の平和の暮らしのために?
そんなものは無かった。
「生き延びるために」
それだけだった。
「人斬り」を正当化するための、言訳だったのかもしれない。


思い出された。
あの、左之助の、不遜とも言える態度。
「それがどうした」
と、たった一言でオレを見下した。
ああ、見下したのだ。
憎らしいほどの、長身。
人を見下しやがって!
お前に何が分かるというのだ。
オレの。

「それがどうした」だと?
お前なんか!
お前なんか!
ちくしょう!

更に頭が混乱してきた剣心は、思い切って雨戸を開けた。
外は夜と朝の間、空気も景色もまだしんと静まりかえっている。
ああ、朝が遠い…
光もまだだ…

剣心はうんざりとした。

そこに…
目に入った水盆。
ああ、あの水盆だ。
夕べあれから、やれ夕餉の準備だ、風呂炊きだと家事に追いまくられて
すっかり忘れていた。
左之助への憤りもそっちのけになるほどの忙しさだったのだ。
大変だ!高価なものだったのに!と
剣心は慌てて草履をひっかけ、庭へと降りる。


その透明な水の中に、
一輪の朝顔があった。
水に濡れたか、それとも朝露か…
瑞々しい花弁に、いくつもの水滴が散っている。
美しく可憐な、紫の朝顔。
そしてその朝顔の花の横に、「人斬り」の顔があった。
ざんばらな髪をした、十字傷のある男の顔。
まるでその朝顔を、髪に挿しているように見える。
なんと異常な図式だろう…
なんと人斬りに似合わない様なのだ!


左之助だな。
そうか、お前か。
昨日の罪滅ぼしかなんかか?
ふん!
こんなことで収まるほど、小さな怒りではないぞ。
だいたいお前は若いからと言って、背が高いからと言って
いつもオレを…

剣心は更にうんざりとしたが、そこではっと気が付いた。
朝顔…夏の早朝に咲く花。
ということは…
自分が起きるよりも早くに、この朝顔を摘んで、
そっとこの水盆に浮かべていったのか。
夜のうちに出来る芸当ではない。
あのネボスケな左之助が?…

「左之助」

自分を単純だと思うときは、こういう時である。
「好きだ」という感情は、どうにも自分を制御出来ないものらしい。
朝寝坊の情人の、小憎らしい演出。
きっと寝ずに過ごし、朝顔の咲くのを待って、こっそりと何処かのお宅の庭へ
入り(花泥棒!)
ひとつ手折り、周囲に目を配って一目散に走り去り
足を忍ばせて神谷家に来て
水盆にそっと浮かべて消えた。
そして、剣心の寝ている離れを見やり
きっとひとつ、笑ったろう。
「起きて驚けよ」

剣心にはその様子が手に取るように分かってしまった。
そして笑った。
やはり嬉しい。
眠かったろうに、頑張って徹夜したのだろう。
左之助はいったん寝てしまったら、朝早くなど起きられないから。
それも「剣心より早く」なんてことは絶対に不可能だから。

そうやって苦労して、自分を気遣ってくれた年下の情人。
ああ、お前はとても不思議なヤツだ。
たった一言、たったひとつの仕草で、おれを天国にも地獄にも
持っていくことが出来る。
惚れた弱みだと思われるだろうが、本当にそうなのだから
仕方のないこと。


しかしまあ、こんな小細工がよく、あの左之助の頭に閃いたものだ。
そう言うところは、いつも剣心はヤツに敵わないと思うのだ。
いい加減に見えていて、ちっとも人の意見に耳を貸さないように見せかけて
ちゃんと覚えておいて、ポイントを外さない、さりげない親切、気配り、行動。
そしてあの、太陽のような笑顔。
それが左之助の、魅力なのだ。
だからあんな風来坊でも、飯に困らない。
友人達も多い。
剣心にはとても真似できない、「芸当」だったのだ。
「自然に」出来てしまう所が、小憎らしいと思う。

「あああ…またやられたか…」

剣心はぼりぼりと頭を掻く。
思わず浮かべてしまったほほえみ。
そんな笑った自分の顔を、水鏡の中に見つける。
先ほどとは違い、「恋」に喜ぶ、「自分」が
朝顔を髪に挿して笑っていた。
「作戦勝ちだな、左之助」


剣心は寝間着姿もそのままに
左之助の長屋へと走った。


寝付いたばかりのところを、襲ってやるぞ。
ざまあみろ。
けれども情人はきっとねぼけながらもにやにやと笑って
頭を撫でてくれるだろう。

そしたら言うんだ。
「朝顔…ありがとう、左之助…」


まだ寝静まっている町を、剣心は口の中でぶつぶつ練習を繰り返しながら
左之助の長屋を目指して走った。








こういう水盆が、我が家にありまして…
骨董市で買ったものです。
それほど高くなかったのですが、安くはありませんでしたよ。
洗うのが大変な、重い品。
確かに金魚でも放せば涼しげでいいんですけど
我が家ではこの水盆いっぱいに
そうめんを…(笑)
花器に麺…


でもとても涼しげよ、はい♪
冷たい麺が、おいしい季節になりましたね。


           城みづき     03・7・29

P.S 剣心…帰り、寝間着姿では恥ずかしかったろうに。